先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事が出来なくなったので、私はついにその要領を得ないでしまった。
先生の気にする財産云々
の
掛念
はその時の私には全くなかった。
私の性質として、また私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の念に頭を悩ます余地がなかったのである。
考えるとこれは私がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないためでもあったろうが、とにかく若い私には何故
か金の問題が遠くの方に見えた。
先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるという言葉の意味であった。
単なる言葉としては、これだけでも私に解
らない事はなかった。
しかし私はこの句についてもっと知りたかった。
犬と小供が去ったあと、広い若葉の園は再び故
の静かさに帰った。
そうして我々は沈黙に鎖
ざされた人のようにしばらく動かずにいた。
うるわしい空の色がその時次第に光を失なって来た。
眼の前にある樹
は大概
楓
であったが、その枝に
滴
るように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなって行くように思われた。
遠い往来を荷車を引いて行く響
がごろごろと聞こえた。
私はそれを村の男が植木か何かを載せて縁日
へでも出掛けるものと想像した。
先生はその音を聞くと、急に瞑想
から
呼息
を吹き返した人のように立ち上った。
「もう、徐々
帰りましょう。
大分
日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうちには、
何時
の間にか暮れて行くんだね」
先生の脊中
には、さっき縁台の上に
仰向
に
寐
た
痕
が一杯着いていた。
私は両手でそれを払い落した。
「ありがとう。
脂
がこびり着いてやしませんか」
「綺麗
に落ちました」
「この羽織はつい此間
拵
らえたばかりなんだよ。
だからむやみに汚して帰ると、妻
に
叱
られるからね。
有難う」
二人はまただらだら坂
の中途にある
家
の前へ来た。
這入
る時には誰もいる
気色
の見えなかった
縁
に、
御上
さんが、十五、六の娘を相手に、糸巻へ糸を巻きつけていた。
二人は大きな金魚鉢の横から、「どうも御邪魔
をしました」と
挨拶
した。
御上さんは「いいえ御構
い申しも致しませんで」と礼を返した
後
、
先刻
小供に
遣
った
白銅
の礼を述べた。
門口
を出て二、三
町
来た時、私はついに先生に向って口を切った。
「さきほど先生のいわれた、人間は誰でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。
あれはどういう意味ですか」
「意味といって、深い意味もありません。
――つまり事実なんですよ。
理窟
じゃないんだ」
「事実で差支
ありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。
一体どんな場合を指すのですか」
先生は笑い出した。
あたかも時機の過ぎた今、もう熱心に説明する張合
がないといった
風
に。
「金さ君。
金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」
私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰
らなかった。
先生が調子に乗らない如く、私も拍子抜けの気味であった。
私は澄ましてさっさと歩き出した。
いきおい先生は少し後
れがちになった。
先生はあとから「おいおい」と声を掛けた。
「そら見給え」
「何をですか」
「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」
待ち合わせるために振り向いて立ち留まった私の顔を見て、先生はこういった。