吉村冬彦
一日じめじめと、人の心を腐らせた霧雨もやんだやうで、静かな宵闇の重く濕つた空に、何處かの汽笛が長い波線を引く。
さつき迄『青葉茂れる櫻井の』と繰り返して居た隣のオルガンが止むと、間もなく門の鈴が鳴つて軒の葉櫻の雫が風のないのにばらばらと落ちる。
「初雷様だ、あすはお天気だよ」と勝手の方でばあさんが獨り言を云ふ。
地の底空の果てから聞こえて來る様な重々しい響きが腹にこたへて、晝間讀んだ悲惨な小説や、隣の『青葉しげれる櫻井の』やらが、今更に胸をかき亂す。
こんな時には何時もするように、机の上に肱を突いて、頭をおさへて、何もない壁を見詰めて、あつた昔、ない先の夢幻の影を追ふ。
何だか思ひ出そうとしても、思い出せぬ事があつてうつとりして居ると、雷の音が今度は稍近く聞えて、ふつと思い出すと共に、ありあり目の前に浮かんだのは、雨に濡れた龍舌蘭の鉢である。
河野の義さんが生まれた歳だから、もう彼是十四五年の昔になる。
自分もまだやつと十か十三位であつたろう。
來る幾日義雄の初節句の祝いをしますから皆さん御出下さるやうにとチョン髷の兼作爺が案内に來て、その時に貰つた紅白の餅が大きかつた事も覺えて居る。
いよいよ其日となつて、母上と自分と二人で、車で出掛けた。
折柄の雨で車の中は窮屈であつた。
自分の住まつて居る町から一里半餘、石ころの田舎道をゆられながらやつと姉さんの宅へ着いた。
門の小流れの菖蒲も雨にしほれて居る。
もう大勢客が來て居て母上は一人々々に懇に一別以來の辭儀をせられる。
自分は其後ろに小さくなつて手持無沙汰で居ると、折よくここゝの俊ちゃんが出て來て、待ち兼ねて居たと云う風で自分を引張つて御池の鯉を見に行つた。
姉さん處には池があつて好いと子供心に羨しく思うて居た。
池は一寸した中庭に一杯になつて居て、門の小川の水が表から床下をくゞつてこの池へ通い裏田圃へぬける様にしてある。
大きな鯉、緋鯉が澤山飼つてあつて、此頃の五月雨に増した濁り水に、おとなしく泳いで居ると思ふと折々凄まじい音を立てゝはね上る。
池の圍は岩組になつて、痩せた巻柏、椶櫚竹抔が少しあるばかり、そして隅の扁たい岩の上に大きな龍舌蘭の鉢が乘つて居る。
姉さんが此家へ輿入れになつた時、始めてこの鉢を見て珍しい草だと思つたが、今でも故郷の姉を思う度には屹度此池の龍舌蘭を思い出す。
今思い出したのは此鉢であつた。
池を距てゝ池の間と名の付いた此小座敷の向かひ側は、臺所に續く物置きの板蔀の、其上が一寸しやれた中二階になつて居る。
あの頃の田舎の初節句の祝宴は大抵二日續いたもので、親類縁者は勿論、平素は餘り往來せぬ遠縁のいとこ、はとこ迄、中には膸分遠くからはるばる泊まりがけで出て來る。
それから近村の小作人、出入りの職人まで寄り集まつて盛んな祝いであつた。
近親の婦人が總出で杯盤の世話をし、酌をする。
その上、町から藝者を迎へて興を添へさせるのが例なので、此時も二人來て居た。
これも祝いのある内は泊まつて居るので、池の向ふの中二階は此藝者の化粧部屋にも休憩所にもまた寢室にもなつて居た。
夕方近くから夜中過ぎる迄、家中唯眼のまはる程忙しい騒しい。
臺所では皿鉢のふれ合ふ音、庖丁の音、料理人や下女等の無作法な話聲などで一通り騒がしい上に、猫、犬、それから雨に降り込められて土間へ集つて居る鶏迄が一層の賑やかさを添へる。
奥の間、表座敷、玄關とも云はず、一杯の人で、それが一人々々に御辭儀をしては六ヶしい挨拶を交換して居る。
其混雑の間をくゞり、お辭儀の頭の上を踏み越さぬばかりに杯盤酒肴を座敷へはこぶ往來も見るからに忙しい。
子供等は仲間が大勢出來た嬉しさで威勢よく驅け廻る。
一體自分は其頃から陰気な性で、こんな騒ぎが面白くないから、いつもの様に宵の内いゝ加減御馳走を食つてしまふと奥の藏の間へ行つて戸棚から八犬傳、三國誌などを引つぱり出し、おなじみの信乃や道節、孔明や關羽に親しむ。
此室は女の衣裳を着更へる處になつて居たので、四面にづらりと衣桁を竝ベ、衣紋竹を掛けつらねて、派手なやら、地味なやらいろんな着物が、蟲干しの時のように竝んで居る。
白粉臭い、汗くさい變な香が籠つた中で、自分は信乃が濱路の幽靈と語るくだりを讀んだ。
夜の更けるにつれて、座敷の方は段々賑かになる。
調子を合わす三味線の音がすると、清らかな女の聲で唄ふのが手に取る様に聞える。
調子はずれの鄙歌が一度に起つて皿をたゝく音もする。
一しきり唄が止んだと思ふと、不意に鞭聲肅々と誰れやらがいやな聲でわめく。
信乃が腕を拱いてうつむいて居る前に片手を疊につき、片袖をくはへて居る濱路の後に、影の様に現はれた幽靈の繪を見て居た時、自分の後ろの唐紙がするすると開いて、はひつて來た人がある。
見ると年揩フ方の藝者であつた。
自分にはかまはず片隅の衣桁に懸つて居る着物の袂をさぐつて何か帶の間へはさんで居たが、不意に自分の方をふり向いて『あちらへいらつしやいね、坊ちゃん』と云つた。
そして自分の傍へ膝のふれる程に坐つて『オオいやだ、御化け』と絵をのぞく。
髪の油が匂ふ。
二人でだまつて無心に此繪を見てゐたら誰かが『清香さん』とあつちの方で呼ぶ。
藝者はだまつて立つて部屋を出て行つた。
俊ちやんと二人で奥の間で寢てしまつた頃も、座敷の方はまだ宵のさまであつた。
翌る日も朝から雨であつた。
昨夜の騒ぎにひきかへて靜か過ぎる程靜かであつた。
男は表の座敷、女同志は奥の一間へ集まつて、しめやかに話して居る。
母上は姉さんと押入から子供の着物など引きちらして何か相談して居る。
新聞を擴げた上に居眠りを始めて居る人もある。
酒の匂の籠つた重くるしい鬱陶しい空気が家の中に充ちて、誰も彼れも、とんと気拔けのした様な風である。
臺所では折々トン、コトンと魚の骨でも打つらしい單調な響きが靜かな家中にひゞいて、それが又一種の眠気をさそふ。
中二階の方で、つま引の三弦の音がして『夜の雨もしや來るかと』とつやのある低い聲で唄ふ。
それもぢき止んで五月雨の軒の玉水が亜鉛のとゆに咽んで居る。
骨を打つ音は思ひ出した様に臺所にひゞく。
晝から俊ちやんなどと、ぢき隣の新宅へ遊びに行つた。
内の人は皆姉さんの方へ手傳に行つて居るので、唯中気で手足の利かぬ祖父さんと雇婆さんが居るばかり、いつもは賑かな家もひつそりして、床の間の金太郎や鐘馗も寂しげに見えた。
十六むさし、將棊の駒の當てつこなどして見たが気が乘らぬ。
縁側に出て見ると小庭を圍ふ低い土塀を越して一面の青田が見える。
雨は烟の様で、遠くもない八幡の森や衣笠山もぼんやりにじんだ墨繪の中に、薄く萌黄をぼかした稲田には、草取る人の簑笠が黄色い點を打つて居る。
ゆるい調子の、眠そうな草取り歌が聞こえる。
歌の詞は聞き取れぬが、單調な悲しげな節で消え入るように長く引いて、一ふしが終わると、しばらく默つて又ゆるやかに歌ひ出す、此れを聞いて居ると何だか胸をおさへられるやうで急に姉さんの宅へ歸りたくなつたから一人で歸つた。
歸つて見るともうそろそろ客が來始めて、例のうるさい御辭儀が始まつて居る。
さつきから頭が重いやうで、気が落付かぬ様で人に話しかけられるのがいやであつたから、獨りで藏の間へ入つて八犬傳を見たが、すぐいやになる。
鯉でも見ようと思つて池の間へ行つて見た。
縁側の柱へ頭をもたせてぼんやり立つ。
水かさのました稲田から流れ込んだ浮草が、ゆるやかに廻りながら、水の面へ雨のしづくが畫いては消し、畫いては消す小さい紋と一緒に流れて行く。
鯉は片隅の岩組みの陰に仲好く集つたまゝ静かに鰭を動かして居る。
龍舌蘭の厚いとげのある葉が濡れ色に光つて立つて居る。
中二階の池に臨んだ丸窓には、昨夜の清香の淋しい顔が見える。
窓の縁に頬杖をついたまゝ、何やら物思はしそうに薄墨色の空の彼方を見つめて居る。
こめかみに貼つた頭痛膏にかかる後れ毛を撫でつけながら、自分の方を向いたが、軽くうなづいて片頬で笑つた。
夕方母上は、あんまり内をあけてはと云ふので、姉上の止めるのにかゝはらず歸る事になつた。
『お前も歸りましようね』と聞かれた時、歸るのがなんだか名残り惜しい様な気もして『ウン』と鼻の中で曖昧な返事をする。
姉さんが『此兒はいゝでしよう。
ねえ、お前もう一晩泊まつておいで』とすゝめる。
之れにも『ウン』と鼻で返事する。
『泊まるのはいゝが姉さんに世話をおかけでないよ』と云つていよいよ一人で歸る支度をせられる。
立場迄迎えにやつた車が來たので姉さんと門迄送つて出た。
車が柳の番所の辻を曲がつて見えなくなつた時急に心細くなつて、一緒に歸ればよかったと思ふ。
『さあ御出で』と姉さんは引立てる様に内へはひる。
頭の工合がいよいよ悪くなつて心細い。
母上と一緒に歸ればよかつたと心で繰返す。
烟る霧雨の田圃道をゆられて行く幌車の後影を追う様な気がして、なつかしい我家の門の柳が胸にゆらぐ。
騒々しい、殺風景な酒宴に何の心残りがあつて歸りそこなつたのか。
歸りたい、今からでも歸りたいと便所の口の縁へ立つたまゝ南天の枝にかゝつて居る紙のてるてる坊さんに祈るように思ふ。
雨の日の黄昏は知らぬ間に忍足で軒に迫つてはや灯ともし頃の侘しい時刻になる。
家の内は段々賑やかになる。
はしやいだ笑顔などが頭に響いて侘しさを揩キばかりである。
姉上に、少し心持ちが悪いからと、云ひにくかつたのをやつと云つて早く床を取つてもらつて寢た。
萌黄地に肉色で大きく鶴の丸を染め抜いた更紗蒲團が今も心に残つて居る。
頭が冴えて眠られそうもない。
天井に吊るした金銀色の蠅除け玉に寫つた小さい自分の寢姿を見てゐると、妙に気が遠くなる様で、體が段々落ちて行く様な何とも知れず心細い気がする。
母上はもううちへ歸りついて奥の佛壇の前で何かして居られるかと思ふと譯もなく悲しくなる。
姉さんのうちが賑やかなのに比べて我家の淋しさが身にしむ。
いろんな事を考へて夜着の頸を噛んで居ると、涙が眼じりからこめかみを傳うて枕にしみ入る。
座敷では「夜の雨」を唄ふのが聞える。
池の龍舌蘭が眼に浮かぶと、清香の顔が見えて片頬で笑ふ。
此夜凄まじい雷が鳴つて雨雲を蹴散らした。
朝はすつかり晴れて強い日光が青葉を射て居た。
早起きして顔を洗つた自分の頭もせいせいして、勇ましい心は公園の球投げ、樋川の夜振と駆けめぐつた。
* *
義ちゃんは立派に大きくなつたが、龍舌蘭は今はない。
雷はやんだ。
あすは天気らしい。
岩波文庫 藪柑子集より