障子の落書

吉村冬彦

 平一は今朝妹と姪とが國へ歸るのを新橋まで見送つて後、 なんだか重荷を下ろした樣な心持になつて上野行の電車に乘つて居るのである。 腰掛の一番後ろの片隅に寄りかゝつて入口の脇のガラス窓に肱をもたせ、 外套の襟の中に埋るようになつて茫然と往來を眺めながら、 考へるともなくこの間中の出來事を思ひ出して居る。

 無病息災を賣物のようにしていた妹婿の吉田が思ひがけない重患に罹つて病院にはひる。 妹はかよわい身一つで病人の看護もせねばならず世話のやける姪をかゝへて家内の用もせねばならず、 見兼ねるような窮境を郷里に報じてやつても近親の者等は案外冷淡で、 手紙ではいろいろ體の好い事を云つて來ても誰一人上京して世話をするものはない。 もとより郷里の事情も知らぬではないが餘りに薄情だと思つて一時はひどく憤慨し人非人の樣に罵つてもみた。 時には此れも畢竟妹夫婦があんまり意気地がないから親類迄が馬鹿にするのだと獨りで怒つて見て、 どうでもなるがいゝなどと棄鉢な事を考へる事もあつたがさて病人の頼み少ない有樣を見聞き、 妹がうら若い胸に大きな心配を抱いて途方にくれながらも一生懸命に立働いて居るのを見ると、 非常に可哀相になつて、 役所の行き歸りには立ち寄つて何彼と世話もし慰めてもやる。 妻と下女とをかわるがわる手傳いにやつて居たが、 立入つて世話して居ると又癪にさはる事が出來て、 罪もない妹に當りちらす。 しかし宅へ歸つて考へるとそれが非常に気の毒になつて矢も楯もたまらなくなる。 こんな工合で不愉快な日を送つて居るうちに病人は次第に惡くなつてとうとう亡くなつてしまつた。 病院から引取つて形ばかりでも葬式をすませ、 妹と姪とを自宅に引取る迄の苦勞を今更のように思ひ浮べてみる。

 殺風景な病室の粗末な寢臺の上で最期の息を引いた人の面影を忘れたのでもない、 秋雨のふる日に燒場へ行つた時の佗しい光景を思い起さぬでもないが、 今の平一の心持にはそれが丁度覺めたばかりの宵の悪夢の樣に思はれるのである。

 妹を引取つて後も、 郷里との交渉やら亡き人の後始末やらに忙殺されて、 過ぎた苦痛を味ふ事は勿論、 妹や姪の行末などの事もゆるゆる考える程の暇はなかつた。 妻と下女とで静かに暮して居た處へ急に二人も増したのみならず、 姪はいたづら盛りの年頃ではあり、 家内は始終ゴタゴタするばかりで殆ど何事も手につかぬやうな有樣であつた。 それがどうやら今日迄で一先づ片付いて妹は兎も角國の親類で引取る事になつた。 それで今朝汽車が出てしまつて改札口へ引返すと同時に、 なんだか気抜がした樣に、 プラットフォームの踏心も軽く停車場を出ると空はよく晴れて快い日影を隱す雲もない。 久し振に天気のよい日曜である。 宅へ歸つてどうすると云ふあてもないので、 銀座通りをぶらぶら歩き、 大店のガラス窓の中を覗いて見たり雑誌屋の店先をあさつてみたり、 しばらくは殆ど何事も忘れて居た。 京橋から電車に乘つて此の片隅へ腰を下ろしてから始めて今朝の別れを思ひ起し、 それからそれと此間中の事を繰返してみる。 薄情冷酷と云ふではないが、 苦い思や鋭い悲も一日經てば一日だけの霞がかゝる。 今電車の窓から日曜の街の人通りをのどかに見下ろして居る刻下の心持は只自分が一通りの義務を果してしまつた、 此間中からの仕事が一段落をつげたと云ふだけの単純な満足が心の底に動いているので、 過去の憂苦も行末の心配も吉野紙を距てた繪ぐらゐに思はれて、 只何となく寛ろいだ心持になつて居る。

 すぐ向ふの腰掛には會社員らしい中年の夫婦が十歳位の可愛い男の子を連れて大方團子坂へでも行くのだらう。 平一は此會社員らしい男を何處かで見た樣に思つたがつい思ひ出せない、 向ふでも時々こちらの顔を見る。 細君の方は子供の帽子を気にして直して居るが、 子供はまたすぐに阿彌陀にしゃくり上げる。 子供の顔はよく両親に似て居る、 二人の丸でちがつた容貌がその兒の愛らしい顔の中ですつかり融和されてしまつてどれだけが父親、 どれだけが母親のと見分はつかぬ。 兒の顔を見て後に両親を見くらべるとまるでちがつた二つの顔がどうやら似通つて見えるのが不思議である。 姪は餘り両親には似ないで却つてよく平一に似て居ると妹が云つた事も思出した。 妹婿は日曜抔にはよく家内連れで方々へ遊びに出た。 達者で居たら今日あたりは屹度團子坂へでも行つているだろうと思ふ。 妹は平一が日曜でも家に籠つて讀書して居るのを見て、 兄さんはどうしてさう出嫌ひだらう、 子供だつてあるではなし、 姉さんにも時々は外の空気を吸はせて上げるがいゝなどと云つた事もある。 こんな事を思い出しては無意味に微笑して居る。

 向ふの子供づれは須田町で下りた。 その跡へは大きな革盤を抱へた爺と美術學校の生徒が乘つてその前へは満員の客が立ち塞がつてしまふ。 窮屈さと蒸された人の気息とで苦しくなつた。 上野へ着くのを待兼ねて下りる。 山内へ向ふ人数につれてぶらぶら歩く。 西洋人を乗せた自動車がけたゝましく馳け抜ける向ふから紙細工の菊を帽子に插した手代らしい二三人連れの自轉車が來る。 手に手に紅葉の枝をさげた女学生の一群が目につく。 博覧会の跡は大半取り崩されて居るが、 もとの一號館から四號館の邊は、 閉鎖した儘で殘つて居る。 壁はしみに汚れ、 明り取りの窓硝子は處々破れ落ちかゝつて煤けて居る。 大方葉をふるうた櫻の根には取りくづした木材が亂雑に積み上げられて、 壁土が白く散らばつた上には落葉が亂れて居る。 模造日本橋は跡方もなくなつて兩側の土堤も半ば崩れたのを子供等が驅け上り驅け下りて遊んで居る。 觀覧車も今は闃として鐵骨のペンキも剥げて赤銹が吹き、 土臺のたゝきは破れこぼちてコンクリートの砂利が喰み出して居る。 殺風景と云ふよりは只何となくそぞろに荒れ果てた景色である。

 平一は今年の夏妹夫婦と姪とで夜の會場へ遊びに來た事があつた。 姪の望むまゝに一同で觀覧車に乘り高い杉の梢の夜風に吹かれた。 あの時の樂隊の騒がしい喇叭のはやしはまだ耳に殘つて居る。 そこらの氷店へはひつて休んだ時には、 森の中にあふるゝ人影がちらついて、 赤い灯や青い旗を吹く風も涼しく、 妹婿がいつもの地味な浴衣をくつろげ姪にからかひながらラムネの玉を抜いて居た姿がありあり浮ぶ。 あの時の氷店の跡などももうたしかに其處とも分らぬ。 平一は過ぎた一夜の事をさながらに一幅の畫の樣に心に描いて見る。

 圖書館の前から上野も奥へ廻ると人通りは少ない。 森の梢に群れて居た鴉の一羽立ち二羽立つ羽音が淋しい音を空に引く。 今更らしく死んだ人を悲しむのでもなく妹の不幸を女々しく悔やむのでもないが、 朝に晩に絶間のない煩いに追はれて固く乾いた胸の中が今日の小春の日影に解けて流れる樣に、 何といふ意味のない悲哀の影がゆるんだ平一の心の奥底に動くのであつた。

 宅へ歸つて見ると妻は用達しに出たらしい。 下女は一寸出迎へたがすぐ勝手へ引込んで音もない。 今朝迄あんなに騒々しかつた家内はしんとして餘りに静かである。 平一は縁側に立つたまゝ外套も脱がず、 庭の杉垣に眩い日光を見て居たが、 突然譯の分らぬ淋しさに襲はれて座敷へはひつた。 机の前に坐つて傍の障子を見ると、 姪がいつの間にか落書したのであろう、 筆太に塗りつけた覺束ない人形の繪が、 おどけた顔の横から両手を擴げている。 何といふ罪のない繪だろうとしばらく眺めていたが、 名状の出來ぬ暗愁が胸にこみあげて來て、 外套のかくしに入れたまゝの拳を握りしめて強く下唇をかんだ。

 程近い踏切を過ぎる汽車の響がして又もとの静かさにかへる。 妹等はもう何處ら迄行つたかと思つて手近い旅行案内を取り上げてみた。