一夜濱を揺がす嵐が荒れた。
嵐の前の宵、客のない暗い二階の欄干に凭れて沖を見ていた。 晝間から怪しかつた雲足は愈々早くなつて、北へ北へと飛ぶ。 夕映えの色も常に異なつた暗黄色を帯びて物凄いと思う間に、其れも消えて、暮れかかる濃鼠の空を、ちぎれちぎれの綿雲は悪夢のように果てもなく沖から襲うて來る。 沖の奥は真暗で、漁火一つ見えぬ。 濕りを帯びた大きな星が、見え隱れ雲の隙を瞬く。 いつもならば夕凪の蒸暑く重苦しい時刻であるが、今夜は妙に濕つぽい冷たい風が、一しきり二しきり堤下の桑畑から渦巻いては、暗い床の間の掛物をあふる。 草も木も軒の風鈴も目に見えぬ魂が入つて動くように思はれる。
濱邊に焚火をして居るのが見える。 此れは毎夜の事で其の日漁した松魚を割いて炙るのであるが、濱の闇を破つて舞上がる焔の色は美しく、其のまはりに動く赤裸の人影を鮮やかに浮上がらせて居る。 焔が靡く度にそれがゆらゆらと揺れて何となく凄い。 孕の鼻の陰に泊つて居る帆前船の舷燈の青い光が、大きくうねつて居る。 岬の上には警報臺の赤燈が鈍く灯つて波に映る。 何處かでホーイと人を呼ぶ聲が風のしきりに闇に響く。
嵐だと考えながら二階を下りて室に歸つた。 机の前に寝轉んで、戸袋をはたく芭蕉の葉ずれを聞きながら、正に來らんとする浦の嵐の壮大を想うた。 海は地の底から重く遠くうなつて來る。
かう云う淋しい夜にはと帳場へ話しに行つた。 婆さんは長火鉢を前に三毛を膝へ乗せて居眠りをして居る。 辰さんは小聲で義太夫を唸りながら、あらの始末をして居る。 女中部屋の方では陽気な笑聲がもれる。 戸外の景色に引きかえて此處はいつものように平和である。
嵐の話になつて婆さんは古い記憶の中から恐ろしくも凄かつた嵐を語る。 辰さんが板敷から相槌をうつ。 いつかの大嵐には黒い波が一町に餘る濱を打上がつて松原の根を洗うた。 其時沖を見て居た人の話に、霧のごとく煙のような燐火の群が波に乗つて揺らいでいたそうな。 測られぬ風の力で底無き大洋をあふつて地軸と戦う濱の嵐には、人間の弱い事、小さな事が名残もなく露はれて、人の心は幽冥の境へ引寄せられ、こんな物も見るのだろうと思うた。
嵐は雨を添えて刻一刻につのる。 波音は次第に近くなる。
室へ歸る時、二階へ通う梯子段の下の土間を通つたら、鳥屋の中で鷄がカサコソとまだ寝付かれぬらしく、クヽーと淋しげに鳴いていた。 床の中へもぐり込んで聞くと、松の梢か垣根の竹か、長く鋭い叫聲を立てる。 此様な夜に沖で死んだ人々の魂が風に乗り波に漂うて來て悲鳴を上げるかと、さきの燐火の話を思出し、しつかりと夜衣の袖の中に潜む。 聲は其れでも追い迫つて雨戸にすがるかと恐ろしかつた。