明方にはやゝ凪いだ。 雨も止んだが波の音はいよいよ高かつた。

 起きるとすぐ波を見ようと裏の土堤へ出た。

 熊さんの小屋は形もなく壊れて居る。 雨を防ぐ荒筵は遠い堤下へ飛んで竹の柱は傾き倒れ、軒を飾つた短冊は雨に叩けて松の青葉と一緒に散らばつて居る。 ビール罎の花も芋の切れ端も散亂して熊さんの蒲団は濡れしはたれて居る。 熊さんはと見廻したが何處へ行つたか姿も見えぬ。

 惻然として濱邊へと堤を下りた。 砂畑の芋の蔓は掻き亂した様に荒らされて、名残の嵐に白い葉裏を逆立てて居る。 沖はまだ暗い。 ちぎれかゝつた雨雲の尾は鴻島の上に垂れかゝつて、磯から登る潮霧と一つになる。 近い岬の岩間を走る波は白い鬣を振り亂して狂う銀毛の獅子のようである。 暗緑色に濁つた濤は砂濱を洗うて打ち上がつた藻草をもみ碎かうとする。 夥しく上がつた海月が五色の真砂の上に光つて居るのは美しい。

 寛げた寝衣の胸に吹き入るしぶきに身顫いをしてふと臺場の方を見ると、波打際にしゃがんで居る人影が汐霧の中にぼんやり見える。 熊さんだと一目で知れた。 小倉の服に柿色の股引は外にはない。 よべの嵐に吹き寄せられた板片木片を拾ひ集めて居るのである。 自分は行くともなく其方へ歩み寄つた。 いつもの通りの銅色の顔をして無心に藻草の中をあさつて居る。 顔には憂愁の影も見えぬ。 自分が近寄つたのも気が付かぬか、一心に拾つては砂濱の高みへ投げ上げて居る。 脚元近く迫る汐先も知らぬ顔で、時々頭からかぶる波のしぶきを拭はうともせぬ。

 何處の浦邊からともなく波に漂うて打上がつた木片板片の過去の歴史は波の彼方に葬られて、ここに果敢ない末を見せて居る。 人の知らぬ熊さんの半生は頼みにならぬ人の心から忘られてしまつた。 遠くもない墓のしきいに流木を拾うて居る此あはれな姿はひしと心に刻まれた。

 壮大な此場の自然の光景を背景に、此無心の熊さんを置いて見た刹那に自分の心に湧いた感じは筆にもかけず詞にも表はされぬ。

 宿へ歸つたら女中の八重が室の掃除をして居た。 『熊公の御家はつぶれて仕舞つたよ』と云つたら、寝衣を畳みながら『マア可哀相にあの人も御かみさんの居た頃はあんなでもなかつたんですけれど』と何か身につまされでもしたようにしみじみと云つた。 自分はそれに答へず縁側の柱に凭れたまゝ、嵐も名残と吹き散る白雲の空をぼんやり眺めて居た。

 岩波文庫 藪柑子集より