まじよりか皿

吉村冬彦

 十二月卅一日、 今年を限りと木枯しの強く吹いた晩、 本郷四丁目から電車を下りて北に向うた忙がしい人々の中に唯一人忙がしくない竹村運平君が交じつて居た。 小さい新聞紙の包を大事そうにかゝえて電車を下りると立止つて何かまごまごして居たが、 薄汚い襟巻で丁寧に頸から顋を包んでしまふと歩き出した。 ひょろ長い支那人のような後姿を辻に立つた巡査が肩章を聳かして寒そうに見送つた。

 竹村君は明けると卅一になる。 四年前に文学士になつてから、 しばらく神田の某私立学校で英語を教へて居た。 受持の時間に竹村君が教場へはひるときに首席に居る生徒が「気を付け」「禮」と号令をすると生徒一同起立して恭しくお辞儀をする。 そんな事からが妙に厭であつた。 そして自分にも碌に分らない事をいゝ加減に教へて居ると、 次第々々に自分が堕落して行く樣な気がすると云つて居たが、 一年ばかりでとうとう止してしまつた。 さうして月給がなくなつて困る困るとこぼしながらぶらぶらして居た。 地方の中學に可也に好い口があつて世話しようとした先輩があつたが、 田舎は厭だからと素気なく断つて了つた。 何故田舎が厭だと人が聞くと、 田舎は厭じゃないが田舎の「先生」になつてしまふのが厭だからといつた。 夫で相變らず金を取らなくちや困るといつてこぼして居た。 其後一時新聞社へもはひつて居た。 半年位通つて真面目に働いて居たが、 自分の骨折つて書いたものが一度も紙上へ載らないので此方も出てしまつた。 此頃ではあちこちの翻訳物を引受けたり、 少年雑誌の英文欄などを手傳つて、 どうかこうかはやつて居る。 時々小説のような物を書いて雑誌へ出す事もあるが、 兎角の評判もないやうである。 自分の小説が何かに出ると、 方々の雑誌屋の店先で小説月評といつた樣な欄をあさつて見るが、 いつでも失望するにきまつて居た。

 根津邊の汚い下宿屋で極めて不規則な生活を送つて居る。 一日何もしないで煙草ばかり吹かして寝たり起きたり四疊半に轉がつている事もあれば、 朝から出かけて夜の二時頃迄歸らぬ事がある。 そうかと思うと二、三日風呂にも行かず夜更迄机へすがつたきりでコツコツ何か書いたり讀んだりする。 そんな時はいかにも苦しそうな溜息ばかりして何遍となく便所へはひつて大きな欠伸をする癖がある。 朝は大概寝坊をして、 之が爲に晝飯を抜きにする事があるが、 其代りに夜の十時頃から近所の牛肉屋へ上がつて腹一杯に食ふ事も珍しくない。 一體に食ふ方にかけては贅澤で、 金のある時には洋食だ鰻だと無暗に多量に取寄せて独りで食つてしまふが、 身なりはいつでも見窶らしい風をして、 床屋へ行くのは極めて稀である。 それでも机の抽斗には小さな鏡が入れてあつて、 時によると一時間もラムプの下で鏡を睨めて居る事がある。 風采は餘り上がらぬ方である。 酒を飲まぬ事と一度も外で泊つた事のないのを下宿の主婦が感心して居た。 友達というものは殆んどない。 唯一人親しく往來して居た同窓の男が地方へ就職して行つてからは、 別に新しい友も出來ぬ。 唯此頃折々牛込の方へ出ると神楽坂上の紙屋の店へ立寄つて話し込んで居る事がある。 此紙屋といふのは竹村君と同郷のもので、 主人とは昔中學校で同級に居た事がある。 いつか偶然に出くはしてからは通りがゝりに聲を掛けて居たが、 此頃では寄るとゆるゆる店先へ腰を下ろして無駄話をして行く。 主人の妹で十九になる娘が居て店の奥の方でちらちらする時がある。 色の白い女学生風な立ち姿の好い女である。 晴々とした顔で奥から覗いて美しい眼を見せる時もあるが、 又妙に冷たい顔をして竹村君などには目もかけぬ時がある。 娘の姿のちらちらする日には竹村君は面白そうに一時間の餘も話し込んで居るが、 娘の顔を見せぬ日は自然に口が重くてさうかといつて急に歸るでもなく、 朝日を引切りなしに吹かして真鍮のしかみ火鉢の片隅へ吸殻の山をこしらへる。 一週間に一遍位は屹度廻つて來るが、 いつ來ても同じやうな話ばかりして居る。 店へは郷里の新聞が來て居るので話はよく郷里の噂になる。 それから昔の同級生の噂になる。 福見や河野が洋行する話や、 桜井が内務省の参事官で幅を利かせて居るやうな話が出ると竹村君は気の乗らぬ返辞をしてふつと題を轉ずるのであつた。

 今日も夕刻から神楽坂へ廻つて、 紙屋の店で暮の街の往来を眺めて居た。 店の出入りは忙しさうであつたが、 主人は相變らず落着いて相手になつて居た。 兵隊が幾組も通る。 「兵隊も呑気でいいなあ」と竹村君が云ふと「あなた方も気樂でせう」といつてにやにやした。 竹村君は「そうさなあ、 まあ兵隊のやうなものだろう」といつて笑つた。 彼は中學校を出るとすぐに生真面目な紙屋の旦那になつて居る主人と、 自分の樣な人間との境遇の著しい違ひを思い較べて居た。 そこへ外から此処の娘が珍しく髪を島田に上げて薄化粧をして車で帰つて來た。 見かえる樣に美しい。 いつになく少しはにかんだ樣な笑顔を見せて軽く會釈しながらいそいそ奥へはひつた。 竹村君は外套の襟の中で首をすくめて、 手持無沙汰な顔をして娘の脱ぎ捨てた下駄の派手な鼻緒を見つめて居たが、 店の時計が鳴り出すと急に店を出た。

 神田の本屋へ廻つて原稿料の三十圓を受取つた。 手を切りさうな五圓札を一重ねに折りかへして銅貨と一緒に財布へ押しこんだのを懐に入れて、 神保町から小川町をしばらくあちこち歩いて居た。 美しさを競うて飾り立てた店先を軒毎に窺き込んで居た。 竹村君はかうして店先を窺くのが一つの楽しみである。 殊に懐に金のある時にさうである。 陰気な根津邊に燻ぶつて居て、 時たま此處らの明るい町の明るい店先へ立つと全く別世界へ出た樣な心持になつて何となく愉快である。 時計屋だの洋物店の硝子窓を子供のようにのぞいて歩いた。 呉服屋には美しい帯が飾つてあつた。 今日ちらと見た紙屋の娘の帯に似て居る。 正札を見ると百二十圓とあつた。 絵葉書屋へはひつたら一面に散らした新年のカードの中には売れ残りのクリスマスカードもあつた。 誰に贈るあてもないが一枚を五十錢で買つた。 水菓子屋の目さめる樣な店先で立止つて足許の甘藍を摘んでみたりして居たが、 とうとう蜜柑を四つばかり買つて外套の隠しを膨らませた。 眼鏡屋の店先へ來ると覘き眼鏡があつて婆さんが一人覘いて居る。 此方のレンズを覘いてみると西洋の美しい街の大通りが浮き上がつて見える。 馬車の往來が織る樣な街の両側の人道の竝木の下には手を組んだ男女の群が楽しさうに通つて居る。 覘いて居る竹村君の後ろをジャンジャンと電車が喧しい音を立てゝ行くと、 切るやうな凩が外套の裾をあふる。 隣りの文房具店の前へ來るとしばらく店口の飾りを眺めて居たが戸を押し開けてはひつて行つた。 眩しい樣な瓦斯燈の下に所狭く竝べた繪具や手帳や封筒が美しい。 水色の壁に立てかけた真白な石膏細工の上にパレットが懸つて布細工の橄欖の葉が挿してある。 隅の方で小僧が二人掛け合ひで真似事の英語を饒舌つて居る。 竹村君は前屈みになつて硝子箱の中に竝べた皿をあれかこれかと物色して居るが、 頭の上の瓦斯の光は薄汚い鼠色の襟巻を隱す所もなく照らして居る。 元気よく小僧を呼んで、 手に取り上げた一枚の皿と五圓札とをつき出すと、 小僧は有難うといつて竹村君の顔をじろじろ見た。 竹村君は小僧が皿を包むのをもどかしさうに待つて居たが、 包を受取ると急いで表へ飛び出した。 さうして側目も振らずにいきなり電車へ飛込んでしまつた。

 竹村君がこの皿を買はうと思い立つたのは久しい以前の事である。 いつか同郷の先輩の書齋で美しい繪のついた長方形の淺いペン皿を見た事がある。 其時これがといつて安くないものだと教へられた。 其後此の文房具店で同じような色々の皿を見付けて一つ欲しいと思ひ立つたが、 今日迄機會がなかつたのである。 今夜買つたのは半月形で蒼海原に帆を孕んだ三本檣の巨船の繪である。 夕日を受けた帆は柔かい卵子色をして居る。 海と空の深い透明な色を見て居ると、 何かしら遠いゆかしい樣な想いがするのを喜んで買つた。

 欲しいと思つて買つたのは愉快であるが、 電車のゆれるにつれて腹の奥底の方に何處か不安な樣な念が動いて居た。 竹村君は郷里に年老いた貧しい母を残してある事を想ひ出したのである。 五圓で皿を買つても暮の払ひには困らぬ。 下宿や洗濯屋の払いを済ませても二十圓あれば足りる。 今年は例年の事を思へば楽な暮であるが、 去年や一昨年の苦しかつた暮には、 却つて覺えなかつた一種の不安と淋しさを覺えて、 膝の上の皿と、 老い増さる母の顔とを思ひ比べた。 四丁目で電車を下りると皿の包を脇の下へ抱えてみたが工合が悪い。 外套の隱しへねじ込むと蜜柑がつかへるから、 又片手でしつかりさげて歩き出した。 木枯しが森川町の方から大學の前を渦巻いて來る度に、 店先の瓦斯燈が寒さうに溜息をする。 竹村君は此空ら風の中を突兀として、 忙しさうな往來の人を眺めて歩く。 知らぬ人ばかりである。 忙しい世間は竹村君には用はない。 何かなしに神田で覘いて見た眼鏡の中の大通りを思ひ浮べて、 異郷の巷を歩く樣な思ひがする。 高等學校の横を廻る時に振返つて見ると本郷通りの夜は黄色い光に包まれて、 その底に歳暮の世界が動揺して居る。 彌生町へ一歩踏込むと急に真暗で何も見えぬ。 此闇の中を夢の樣に歩いて居ると、 暗い中に今夜見た光景が幻影となつて浮き出る。 の帆船が現はれて蒼い海を果もなく帆かけて行く。 海にも空にも船にも歳は暮れかゝつて居る。 逝く年のあらゆる想いを乗せて音もなく波を辷つて行く。 船には竹村君も小さくなつて乘つて居る。 紙屋の娘も水々しい島田で乘つて居る。 淋しさうな老母の顔も見える。 黙つてぢつとして居る人々の顔にも年が暮れかゝつて居る。

 竹村君は片手の皿の包を胸に引きしめる樣にして歩いて居たが、 突然口の中で「三百圓もあるといゝなあ」と呟いた。