静岡市北、季節だより  102、2015年6月
戦後70年に思うこと。
2015年 6月 8日


皆さん、こんにちは。
静岡の西川です。

 私の家のすぐ近くには、裏山からサワガニが住むほどにきれいな小川が流れています。
その小川の土手には近所の人達が植えたアジサイの花が、今、満開です。
 静岡でも、ここ暫らく涼しい日が続いていましたが、本日、東海地方も梅雨入りしたと聞きました。
またあの鬱陶しい蒸し暑さがやってくると思うとうんざりです。
 そんな時、あのアジサイの花がなごましてくれます。
 みなさんの周りではいかがでしょうか。

 さて、今年は、太平洋戦争を終えて70年をむかえました。
 私は、戦後生まれですからあの戦争は知りませんが、まだ幼少の頃、戦後いつまでもラジオからおたずねびとという放送がありまして、裸電球の下、家族みんなで聞きいっていたことを今になっても思い出します。
 叔父さんや叔母さんたちは南方に出兵したり、満州にに行きましたが、南方では戦いに敗れるし、満州ではソ連の参戦で命からがら逃げてきたと聞きました。
残った叔父や叔母も静岡の大空襲で焼け出されるし、こんな話を聞いて育ちましたから戦争は本当に恐ろしいと思いました。
 私の在所の目の前に、当時、女子師範学校がありまして空襲で焼かれてしまいました。
その焼け跡には校舎の土台だけが残り、その土台に乗って遊んだことを覚えていますし、戦後は食糧不足だったのでしょう。暫らくの間、焼け跡や、校庭は全てさつま芋ばたけや、や麦ばたけに変わってしまいました。
 その時、私の家にも焼夷弾(しょういだん)を束ねてあった破片の一部が家を直撃されて、 その破片が屋根をつきやぶり縁の下深くに埋まっていると父親から聞きました。あ
の時、焼夷弾でなくて本当に良かったといつでも父親が話していました。

 私が、所帯をもったときの大宅さんの家では、主人が留守の間に爆弾の直撃を受けてしまい、主人を残して家族全員が亡くなりました。
 この話は有名な話でして、戦後、軍需施設を攻撃するところ間違えて、爆弾を農家のちかくに落としてしまったと米軍は、誤爆と話されたようですが、戦争とはこんなものでしょうか。
 ご主人は昔から良く知っていましたが、寂しかったのでしょうなにも話して暮れませんでした。
 私の、義理の兄のお父さんは、サイパン島で玉砕したと聞いています。

 今では、回りでも戦争を体験したヒトも少なくなりました。
満州での恐ろしさや、空襲の恐ろしさを話してくれた両親も叔父も叔母ももういません。
 最近のニュースを見ていると、何かきな臭いというか、おかしな方向にすすんでいるような気がします。

 60年代、70年代には反戦運動や、平和運動がさかんでした。
 そんな中でメッセージソングとしてフォークソングが生まれました。
音楽をつうじて平和な社会を望むのはみんなの願いでしょう。

 今年も終戦がちかづくと、各地の公民館などで戦争の体験談などが講演されます。
 こんな話を聞いていると、とても戦争が終わったとわ思いません。

また、静岡の伝馬町近くには、平和資料センターがあります。
皆さんも是非いってみてください。
 
 では、間もなく梅雨となります。
皆さん御身大切にお過ごし下さい。

平成27年6月8日 西川

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