「シミュレーションの必要性」


ある講演会で講師と一緒に昼食をとったときのこと。
 用意した昼食(お弁当)の中身を、
講師にガイドとして同行してきた人の、なんとも分かりやすく、かつ表現力豊かに説明するのには大変感心してしまいました。
少し離れたところで聞いている私にも、その中身が手に取るように分かり、
リアルなイメージとして頭に浮かぶのです。
自らを表現者と称している講師と、同じ活動をしている仲間とのことですから、
説明のうまさは当然なのかもしれませんが、
そこには日ごろから明確なスタンツを持って視覚障害者に対する説明の大切さを伝えている、
講師の姿が浮かびました。

 私は、その1週間後、あるパソコンさぽーたーの集まりにパネラーとして参加しました。
昼食を取りながら打ち合わせをすると聞いていたため、私はその会場となる部屋に向かいました。
室内にはすでに10数人の人たちがテーブルの周りに座っているように感じました。
まもなく主催者側から「では昼食をとりながら話をしましょう」との一声があり食事が始まりました。
ここでは食事の内容を含め、テーブルの上の様子に付いて説明は全くありません。
箸が手前にも横にも見当たらなかったため「お箸はどこでしょうか」と聞くしかありません。
お茶を飲もうと、周りを探すと、逆さにした湯飲みが見つかりました。
やかんか急須はどこかと思い「すみません。お茶はどこでしょうか」と聞くと、
ぺっとポトルが上に置いてあるとの変時。
そこで左手を前にぐっと伸ばすとテーブルの端に、たしかに置かれていました。
弁当の中身が分からぬまま、味気ない昼食を済ませ、ペットボトルから直接お茶を飲み、テーブルの上に置こうとしてびっくりです。
なんと、そこにはもう弁当も湯飲みもなかったのです。
 これは、食事の1場面ですが、
この催し全体を通して、声掛けの貧弱さが目立ち、視覚障害者に対するサポーターの集まりと聞いていたのは、私の勘違いではないのかとさえ思ったほどです。
そういえば弱視者の多いある会に出席したときのことです。
講演が終わり、いくつかのグループに分かれてワークショップを行うことになりました。
「参加社名のところに付記してあると同じ記号のテーブルにそれぞれ集まってほしい」とのアナウンス。
多くの人は、その支持に一斉に移動を開始ししましたが、
私と同じように墨字の資料が読めない参加者は一様に困っているようでした。
私も近くの人を捕まえ、自分の記号と、そのテーブルの位置を聞き移動を開始しました。
 でも机のレイアウトも不明で、初対面の人が多い会場内では、けっして容易な移動ではありませんでした。

 このような配慮不足は日常よく遭遇するものです。
例えば、食堂でだまってお茶が出されていたり、味噌汁が置かれたりするし、
喫茶店では注文した飲み物が届いているのも知らず、そのまま待っていたり、
催促してしまったりなどなど。
時には置いてあることが分からず容器を倒してしまうこともあります。

 でも、日ごろ視覚障害者と接触のない人は、不適切な対応をしても、慣れていないわけなので仕方のないことでもあります。
しかし、上の例は少なくとも視覚障害者に対するサポート活動を実践している人たちであり、
また視覚障害者自身でもあります。
 こうした配慮のなさは、ときには視覚障害者に大きなショックを与え、自立への意欲さえ失わせてしまうこともあるのです。  

 では、あらゆることを全てサポートすれば良いのでしょうか。
それは違います。
 適切な支援とは、人格を尊重し、選択と決定を重視しながら要所要所を確実にサポートすることです。
 とすると、具体的には、どのような支援が最適でしょうか。
これは文章や言葉ではなかなか伝えにくいものです。
 それには、様々な場面設定のなかでより具体的なシミュレーション体験を、より多く経験すること、
そして、より多くの視覚障害者と接し、コミュニケーションを持つことです。
こうした経験を重ねるなかで、どんな支援をすれば良いかが、徐々に分かってきます。
 周囲の配慮不足により視覚障害者に寂しい思いをさせたり、見えないというつらさを与えたりするようなことは避けなければなりません。 

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